22

21回目の到達点、を書きそびれて22回目を迎える。

 

いや、多分それ以上に到達点はあったはずだし、そうであってほしいという願望も込めて、最低でも22回目ってだけですが。

 

 

 

毎年毎年、思い浮かべる人が増えるのはとってもとっても嬉しいことで、なおかつめちゃくちゃ寂しいことでもある。

思い浮かべた顔に明日会えるわけではない、いつか会えるならまだいい方で、22回も到達点を経験していたら、それなりに出会った人との永遠の別れ、また会える可能性が限りなく低い別れの経験をしてしまう。

もう絶対に会えない人、もう多分会えない人、お別れの日が決まっている人、会える希望があるのになかなか会えない人。

会える人も沢山いるはずなのに、会えない人の方が多く感じてしまう。多分それは私がずっと寂しい寂しいと喚いているからで、この時期は特に。冬はただでさえ寂しいのに、年末年始に私の誕生日、振り返るタイミングが多すぎる。

出会いがあるから別れがある、つまるところ別れがあるから新しい出会いがあるんだよ、なんて言ってくる優しそうな顔したやつもいるけど、私はそういった類の言葉で納得できるほど賢くない。

 

別れがあるから出会いがあると言うのなら、大好きな親友との出会いをどう説明したらいいのだろう。朧気な記憶の中に2人で手を繋ぎながらテレビを見てた記憶がある、多分アレは幼稚園児の時だった。可愛かったね、あの頃の俺は。中身は変わってないのに、身長だけめちゃくちゃ伸びてしまって…

 

 

 

 

 

嗚呼、どうしようもなくつまんない話を広げようとしちゃった。ただでさえまとめる力がないのに。

そもそもこうやってブログを書いてはいるけど、伝えたいことがしっかりとあるわけじゃないからまとまるわけがないんだけど。

 

 

 

出会ったら絶対に別れがあるからしょうがない、大丈夫、なんてソレは、人は生まれたら死ぬんだよ、だから死を恐れなくていいんだよって言われるのと同じようなことで。そんなことわかった上で寂しいわけで。

 

死ぬために生まれる人がいないように、別れるために出会った人もいなければ、別れを意識して出会う人もいない。だから私は、出会いは出会いで、別れは別れだと思ってる。

同じ人と同じ場所に同じ時間、同じ天気、同じテンションではもう二度と出会えない。同じように別れだってそうで。

 

だからこそ寂しさを大事にしていきたいなって、今年の私は思ってる。寂しさから逃げない。寂しいことは寂しい。だけどその寂しさの0.03%くらいを幸せだと思えるように大事にしていく。それが何になるのかは全くもって分からないけど。

でも、寂しいと思えるのは今までの自分がそう思わせる人とそう思いたくなる時間を過ごしてきたからだって胸を張りたい。

寂しさを埋めるのは金でも場所でも物でもなくて、やっぱり人しかいないんだと恥ずかしげもなく叫べるくらいの時間を過ごすのが今年の私。見とけよお前様、もう会えなくても見ててくれよ。

 

 

 

だからどうしたって話だけど、22回目の到達点を見守ってくれた人、この到達点には一緒に来れなかったけど今まで私に影響を与えてくれた人、全ての人に感謝して今年は過ごしたいですねって話。

愛してほしいし愛されていて欲しい、あなたのおかげで寂しいし、あなたのおかげで嬉しい、だから誰かのおかげで寂しくなってほしいし、誰かのおかげで嬉しくなってほしい。

 

そうやって色んな感情をくれてありがとうございますという感謝の気持ちを持って、今年は私もいくつか返して行けるようにします。

 

何卒、何卒。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とは全く別物の感情が渦巻いている最近。

 

22歳、もう若くない。相対的に見ればまだまだ若いと言われるかもしれない、人生100年時代なんて言うし。

ただ、もう若くはないのだ。自分に才能があると信じて疑わない若さもなく、かといって全てを諦め切れるほど終わりが見えているわけでもない。

ここからはひたすらに、才能がない自分と向き合い、少しずつ夢を諦め、どうにか手に入れたもので満足していかなくちゃいけない。

サッカー選手になりたい、日本代表になりたいという夢すら諦めきれずに形を変えてひたすら追い続けてる人間が、いずれどこかでそれを諦めなくちゃいけない。

学校みたいに終わりが決まってないからこそ、自分で終わりを決めなきゃいけない。それは才能のある人が選べる終わりではなく、諦めである。

 

才能がない、才能がないと言い続けてる取り柄のない人間は目が見えないことも車椅子ユーザーだってことも鬱病もイケメンも可愛い顔も性格がいいことも楽器が弾けることも歌が上手いことも同じに見えてしまう。

 

ぜーーーーーんぶキラキラしてんですよ、羨ましい。

 

だけど、だからこそ、何もない自分のことを愛していかなきゃいけない。

それは多分諦めではなくて、受容だったり努力だったりする。自分なんて嫌いだって言い続けることも、自分のマイナスな部分と向き合うことも、自分のことを愛していなくちゃ出来ない。

 

難しいしさァ、自分でもどこがゴールかあんまりわかってないけど、自分のこと愛してあげたいのよ。貶して、咎めて、ボロボロにして、諦めて、それでも捨てきれなくて、バカにしながら、蔑みながら、やっぱり愛してあげたいのよ。

俺には何もない、才能も実力も誰よりも努力する力も飛び抜けたビジュアルも人とは違うところも。埋もれて誰にも見つからない石ころ、それでも愛してあげたい。

 

 

何日もかけて書きすぎて、何を書きたかったのか忘れちった。

 

多分、悔しくて、それでもそれを原動力に変えられるほどのパワーはなくて、何も無い自分が嫌で、だけどそう思ってしまう自分も嫌で、どうにかしたくて、どうにもできなくて、ひたすらに書いたんだと思う。

これに答えが出る時は夢が叶った時でも努力が報われる時でもなくて、諦めた時でもなくて、そもそもそこへの情熱が無くなった時だと思う。

 

だからこれでいい、もがいてあがいて、悔しさを抱いて、何も無い自分を殺したくなって、そう思ってしまう自分に嫌気がさして、どうにかしたくて、またもがいてあがいて、そうやってひたすらに生きていく。

 

終わらせない、終わらせるにはまだ若いから。

 

 

 

 

 

追伸

 

誕生日当日になった途端吐いちゃったり、頭がギンギンに痛かったり、寒気で布団から動けなかったり、何も考えられないくらいしんどい。

ワクチン接種をなんで前日にしちゃったんだろうね、まア4月からのことを考えたらここしかなかったんだけど。

こんなに何もしないお誕生日は初めてで、この歳になってもまだまだ初体験があることが嬉しい。

 

お誕生日は絶対に終着点ではないし、だからといって通過点でもない。大事な到達点で、1回1回違う。それをまたしっかり確認できた日でした。

 

今日を愛でて、その上でまた明日を望む。また次の幸せを望む。そういう人でありたいネ。

 

そんなことも思ったお誕生日。

 

これからも変わらずに、纏まらない想いをひたすら抱えて、あーだこーだ言いながら、たくさん間違えて、たくさん後悔して、沢山の小さな幸せに気づいて、大きな幸せも決して馬鹿にせず、人に生かされながら人と生きていく。

 

そんな人間になりたいです。

 

 

 

赤色のカイロ

 

なんつって。